MSXFANを発掘したゾ!

MSXマガジンがきたらやはり次はMSXファンだね。

こういうゲームの開発方法がふつーにかかれてるのがMファンに限らず当時のほとんどのPC雑誌の特徴。たしかにその中でもMファンはとびぬけていたけどね。機種を選ばなかったらこういうゲーム開発や音楽、グラフィックを学べる雑誌が毎月数冊でていたのだ。


ちなみに雑誌へのプログラムの投稿、掲載がもっとも機能していたのがMファンだ。あの有名なベーマガが足元にも及ばないくらい。MSXというひとつの機種でさまざまなソースコードのサイズ制限のもと投稿された。

なかでも花形は1画面プログラムである。

ソースコードが1画面に収まるくらいという脅威の制限の中すさまじい作品が結構現れた。また、極限の圧縮や難解なソースコードであったがソースが純粋に短いためにもっとも打ち込まれただろう。5画面をこえるとみんな打ち込むのが面倒になったものだ。

Mファンの投稿、掲載のシステムがなぜ優れていたかといえば、やはり一番重要なのはカラー化だろう。そしてそのソフトの説明をMファンがする。そしてその文章をみたら思わず打ち込みたくなるようなすばらしいものだった。

ベーマガはいわゆるあらゆる機種の共有というか基礎となる情報であって、濃い情報はそれぞれ専門誌に分かれていた。だからモノクロでもよかったし、それだけにベーマガのコードを打ち込みまくったという人は意外と聞かない。表紙に掲載されるとカラーになるのだが、そのときはじめてザリターンオブレインボウの綺麗さに驚いた。やはりモノクロではだめなのだ。文章も咲く所の文章がほぼすべてで、たまにDr.Dや影さん、編さん、つぐみちゃんが短い文章を述べるのみ。スペースの関係でその文章がない作品のほうが多かったはず。しかも、どちらかといえば楽しさを伝えるものというよりは辛口な表現やプログラミングテクニックについて話すことが多かった。

そしてそんなプログラミングの掲載コーナーファンダムは別冊となっていた。ファンダムライブラリーである。

実際に開いている文章や写真を見て欲しい。画面と文章を見るだけでわくわくするではないか。そしてこのゲームをやるために打ち込むのである。ゲームソフトなんて正月くらいにしか買えなかったあの時代、低価格で遊べるソフトが手に入る雑誌はまさしく神だった。

そして、遊ぶために打ち込んでいけば自然とパソコンの勉強になったものだ。キーの配置をそれなりに覚えていったりとかデータのセーブやロードなどのコマンド等。そして打ち込み方を覚えれば自然と自分でもプログラムを書きたくなるというもの。いわゆるテキストエディタがない時代(今の若い人は信じられないかもしれない)だし、メモリは今のCPUの1次キャッシュくらいのときである。マシン語も普通だったし(アセンブラなしは珍しくない)開発そのものの難易度が高くとも雑誌などまわりの環境で支えていた。結果、今より敷居は大幅に低かったと思う。

そしてカセットテープが伸びて泣くのも一度は誰しもが体験するもの。よく安くうっていた120分テープはすぐデータが読めなくなるので、おいらは10分テープをよく購入していた。45分テープくらいまでなら結構大丈夫だったと思う。「安物買いの銭失い」をここでみんな学ぶのである。

それにしてもTEIJIROとか米屋のチャチャチャとかなつかすい。



いまだとマシンの性能が高すぎて、グラフィックの差を中心として同じ土俵で戦ってる気がしないと感じることが多くなったのかもしれない。また、目が肥えすぎて目指す地点が高すぎることなどが最大の問題になってると思う。たとえるならただっぴろい広大な土地を用意されてもどうすることもできないというのが今の状況。人によってはその広大な土地を使ってリゾート施設を作るかもしれないし、砂のお城を作って喜んでいるかもしれない。昔は狭くとも整備された砂場が存在していてその中で競い合っていたというか。


まぁ、最近は衛生面で公園の砂場廃止されてるところばかりだと思うけど。それもなんか悲しいけど。